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地味な人 [第2回]

地味な人(純文学小説)

 

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Free Images - Pixabay

 

 ホームセンター勤務の夫に人事異動の内示があり、彼がZ…市A…地区への転居の必要を妻の昌美に説いたとき、彼女は妊娠中の身で、どうにか悪阻の時期をやり過ごしたところだった。

こんなときの引っ越しなど考えたくもないくらいだったが、煙草の吸いすぎからか色の悪い夫の唇の間からZ…市という転勤先の名がつぶやかれると、彼女は素直に喜んだ。

 久保夫妻が新婚時代を過ごしてきた福岡市近郊の農村だったと思しきこの地は、およそ街と呼べるだけの纏まりを形成してはいず、住むには半端な、何の美観も望めない、高度を上げるか下げるかして頭上を通り過ぎる飛行機の音がやたらと喧しい、目下、交通の要衝としての役割を果たしているだけといった土地柄だった。

国道を挟んで田畑がまばらに残っており、工場などがあった。道路の片側沿いに銀行、個人経営のコンビニ、クリーニング店、パン屋、八百屋が、反対側に精肉店、米屋、小さな食品スーパー、内科医院があった。郵便局はずっと離れた場所にあって、産婦人科となると、影も形も見えなかった。

他人に訊いて見つかった産婦人科医院はもっぱら堕胎専門で水子霊がひしめいているという噂だったため、昌美は自宅のある郡部から博多駅にほど近い公立病院を目指して半時間、バスに揺られることとなった。

 久保夫妻の住居は、一つの長屋を四つに切り分けて並べたような貧弱なつくりで、奥に位置する彼らの小さな家は崖下にあり、崖の上にはお寺があった。西日しか射し込まず、梅雨時になるとムカデが出た。

雨で家の中が湿気ると、汲みとり式の便所の臭気が甚だしく、そんなとき、昌美は何とはなしに泣きたくなるのだった。マンションが彼女のあこがれの住まいといえた。

 この地に開発の手が伸びるのは時間の問題と思われたが、そうなれば、ここはさらに人間が住みづらい地になるのかもしれず、春にはうまれてくる子供が小学生になれば、交通量の凄まじい道路を横断して――田圃の中にある――小学校に通うことになるのはほぼ確実だった。

その頃にはせめて歩道橋ができていればいいけれど、と昌美は消極的な、それゆえにせつない望みを抱かずにいられなかった。

 こうしたことを総合して考えてみると、この地に執着すべきことは何もなかった。妊娠下での移転という肉体的な不安要因はあるにしても、新しい環境への期待が芽ぐむ。

 だから、福岡市のベッドタウンとしてひらけたZ…市が近年、大学を中心とした学園都市としての風格を見せ始め、教育施設の整ったそこへわざわざ引っ越してくる人々も多いと夫に聞かされたときには、昌美の期待感は一気に膨らんで、ぱちんと弾けそうになった。

マンション住まいと並ぶ彼女のもう一つのあこがれは良質の大学教育で、うまれてくる子供にそれを受けさせられれば、もう言うことはないと思う。彼女は短大出身だったし、夫の豊は名もない大学の出身だった。自分自身に対する偏見かもしれなかったが、彼女には自分が三流の人間に思えた。

 博多駅まで快速列車で二十分というのだから、ますます悪くない話だった。

「あそこは綺麗な街だよ、少なくともここよりはね」
 と、夫は言う。

「今度、Z…市のはずれにトイザらスという名のアメリカの玩具屋ができるよ。玩具のディスカウント・ストアなんだけど、正確に言うとね、日本にアメリカのハンバーガーをもってきたことで有名な実業家、藤田田(ふじた でん)がハンバーガーのときと同じやりかたでアメリカの玩具専門チェーン、トイザらスと合弁契約を結び、平成元年に日本トイザらスを設立したんだ。Z…市にできるのは、それのチェーン店の一つというわけ。ユダヤ商法を身につけた藤田の戦略は、通産省の大型店舗規制の意向を翻させたと言われているよ。彼は、日本人をハンバーガーで金髪に改造するってさ」